SABUKAWA MURA
2014-11-05
こんばんは。
いつもありがとうございます。
寒くなってきましたね。
読書の秋ですね。今日読む本はこれですね(笑)↓
写真は少ないです。読み応えありますよ。
そして今宵のBGM↓
スペースエイジ、バチェラーパッドミュージックです。
さて、今日も、2013年のブログをリメイク再掲載いたします。
2013年10月15日投稿分です。
それでは、どうぞ。
こんばんは。10月15日の樹液?採集です。
私は、廃村、廃校、廃道などめぐるのが好きです。もちろん美しい自然や建物、景観も好きですが、これらは、なんとも言えない退廃美がありますね。
今日は、廃村に行ってみました。家族の反対もありましたが、温泉、おいしい食事をつけて合意となりました(汗)。
この廃村は山の頂上にあります。ここを選んだのは、後期に椎茸栽培を主業としていたからです。
山奥の林道をひたすら進み、高所にのぼっていきます。日本のマチュピチュといえば、竹田城跡ですが、この集落も、幻想的な高山地集落跡です(大げさ)。
集落へは、ガードレールのない未舗装の狭い道を、ひたすら上ります。1本道ですが、昔の人は、よくぞこの道を上って(おそらく徒歩)、集落を形成したのかと思うと、感動します。
途中、ノコちゃんがいました。この時期、クワの姿をみると、ホッとしますね。
●寒川村について。
「1878年には42世帯215人、1965年には50世帯211人が居住していたが、最末期の1989年2月には6世帯13人にまで激減し、平均年齢も70歳を超えた「限界集落」の状態であった。集落としては1989年に廃村となった。寒川天神社は慶長2年(1597年)創建と伝えられ、遅くともこの時期までに集落が形成されていたことが伺える。江戸時代には寒川村は肥後国球磨郡にある「米良荘」の1か村、寒川谷村(さぶかわだに)とされた。
1960年代以降、基幹産業であった林業・農業は壊滅的状況に陥り、1978年には寒川小・中学校が閉校した。自家用車を持つのは6世帯中2世帯のみで、日常の買い物や通院にも支障をきたしていた。その上、2キロメートル先にある水源や、集落と県道を結ぶ道路の管理もままならないなど、集落を維持することが著しく困難となった。
1986年11月24日に、寒川集落の住民5人が市側に集団移転の陳情書を提出した。これを受けて市側は寒川の麓にあたる「福王寺」地区を移転先に決定し、市営住宅を建設した。そして1989年3月に最後の住民6世帯13人が集団離村し、寒川の400年に及ぶ歴史に幕を下ろした。市側は移転の条件として、「かまどの破壊、畳を上げること」、すなわち、再び居住することが出来ない状態にすることを住民に求めたという。」
到着しました。多くの廃墟があります。学校や神社跡などもあります。人が住まなくなって20年ほどたっています。流石に、夜は、来たくない、といいますか、道が険しすぎて、来れないと思います。
こんな感じです。
コナラの大木がありました。近くで確認するも、樹液なし。
クヌギの大木が、数本あります。
近くで確認。立派な木です。高所にウロがありますが、登れません。
この奥の林も散策です。目ぼしい樹液木はありませんでした。
下山し、川沿いを散策しながら、以前見つけたポイントに到着。今シーズン一度もチェックしていません。樹液は、枯れていますね。もうこの時期いないのかな~。
一応高所のウロをチェック! 奥に大きな黒い影があり、上って行こうとします。
抑えて、抜き取ります。デカイ!!
63.51mm!
流石に、非常にすれていますが、幅広で、重量感ある個体です。
次の木も、樹液は、枯れています。一応、中を照らすと.........。
奥に、いました!いてくれると、何だかうれしくなりますね。
61.51mm
短歯型で、非常にカッコいい個体でした。
流石に、樹液は枯れ、クワの姿は少なくなりましたね。
最後はここで食事。おすすめですよ♪
終わり。
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